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クリスチャンの家庭の子どもの育ち

 西荻学園幼稚園はキリスト教主義の幼稚園ですから、クリスチャンのご家庭のお子さんがほぼ毎年入園されます。そこで、今回は特にクリスチャンのご家庭のお子さんの育ちについて、注意点を考えてみます。  聖書の語る人間観は大きく二つあります。一つは、人はみんな神さまによって命を与えられた尊い存在であるというものです。これは、人権の基礎であり、人間の尊厳を教える大事な人間観です。もう一つは、「罪」の理解からくる強い倫理観を伴う人間理解です。この二つ目の点が、場合によっては子どもを強く抑圧し、育ちの力そのものを委縮させてしまうことがあります。  子どもが育つというのは、それまで自分を定めていた「枠」を「自分の意志で」、「自分らしく」、乗り越えていくということです。その時に、強すぎる枠に囲まれると枠を乗り越えることがとても困難になります。「自分らしく生きる」という育ちの力に対して、「クリスチャンとして相応しく育て」という外部の強い力が働くからです。  現在の日本にはクリスチャンは1%程です。クリスチャンとして子どもを育てようと意識している家庭となると更に少ない数になります。これは、クリスチャンとして育てられている子どもは、絶対的な少数派に属するということです。念のため申しますと、少数派だからいけないということではありません。少数派であるという事実を受け止めなければいけないということです。少数派として、クリスチャンとしての自分を発揮することに慎重にならざるを得ない、という子どもの現実を重く受け止めてあげて欲しいと思うのです。  子ども同士の間であっても、クリスチャンであることが必ずしも肯定的に受け止められるわけではありません。教育された「罪」の意識からお友達を注意すると、「攻撃」していると相手にも、さらには教師にも受け止められかねません。自分らしく生きようとすると「クリスチャンのくせに」と攻撃されます。神さまを信じていることを馬鹿にされます。繰り返しますが、少数派であるということを理解してあげてください。程度の差はあれ、大人のクリスチャンが社会で経験する少数派の困難を子どもの世界でも経験する可能性が大いにあるのです。  家庭で「クリスチャンらしく」と言われ、外では少数派となってしまうとなると、いったいどこで子どもは「自分」を発揮して、ありのままに生きればよいのでしょうか。どこで「自分

詩 「よその家」

 「よその家」 (詩・小野省子 『おかあさん、どこ』より) 他人の子が とてもかわいく見える時がある 聞きわけがよくて 素直で 優しくて 明るくて まあ、なんてかわいいのかしら あの子は! その時ふと 娘の視線の先に気づく 娘はよその子のママを見ている きれいで やさしくて 歌やお話が上手なママを! 娘はそっと 私の手をにぎる 私もそっと 娘の手をにぎる それから手をつないで 帰る 私たちのおうちへ ※松居和先生から「おかあさん、どこ」(詩・小野省子さん)という小さな詩集をいただきました。20冊程ありますのでご希望の方に差し上げます。ご希望の方は有馬までお声をかけてください。 2018年10月05日

詩 「抱きしめたくなる」

 「抱きしめたくなる」 (詩・小野省子 『おかあさん、どこ』より) お母さん、私 どうやったらまた 赤ちゃんに戻れる? 小さくなったら ごはん食べさせてくれる? だっこでねかせてくれる? 娘のそんなささやきを 哀しく思うし 愛しく思う 病院で初めて弟を見た時の 不安げな顔を思い出し 小さな体を ぎゅっと抱きしめたくなる お母さん、私 どうやったら早く 大きくなれる? 一人で歩いて 幼稚園に行きたいの 一人で遊びに行きたいの 娘のそんなつぶやきを 寂しく思うし 嬉しく思う 漠然とした遠い何かに向かって 確実に進んでいるその小さな体を 「まだ行かないで」と ぎゅっと抱きしめたくなる ※松居和先生から「おかあさん、どこ」(詩・小野省子さん)という小さな詩集をいただきました。20冊程ありますのでご希望の方に差し上げます。ご希望の方は有馬までお声をかけてください。 2018年10月05日

詩 「無駄」

 「無駄」 (詩・小野省子 『おかあさん、どこ』より) 「私の人生に無駄なものなど一つもない」 そんな よく聞くセリフを言うような人は 傷つきやすい臆病な人間だ 散らかった部屋の真ん中で うっかり赤ん坊と一緒に寝てしまい 目をさましてから 頭をかかえて後悔 流しの中に積まれた食器 かごいっぱいの洗濯物 そんなものさえ  何かの糧になっているんだと思わなければやっていけない そんな 自分を責めることに臆病な人間 私はそういう幸福な人間をめざそう 「無駄なものなど一つもない」 そう自分に言い聞かせながら 平安の日々を手に入れよう ※松居和先生から「おかあさん、どこ」(詩・小野省子さん)という小さな詩集をいただきました。20冊程ありますのでご希望の方に差し上げます。ご希望の方は有馬までお声をかけてください。 2018年10月05日

詩 「重み」

 「重み」 (詩・小野省子 『おかあさん、どこ』より) 自分が少し悲しむと お母さんがすごく悲しむから それがつらいと娘が言った 自分が泣いていると お母さんがすごく気にするから それが嫌なんだと 私をにらんだ ああ こうして親たちは やわらかな手かせ足かせとなるのだろう あたたかな鎖をからませるのだろう 多くの子供たちが その重みで 何かを思いなおすのだろう 何かを思いとどまるのだろう 投げやりに進み始めた歩みは止めて 声をあげて引き返すのだろう ※松居和先生から「おかあさん、どこ」(詩・小野省子さん)という小さな詩集をいただきました。20冊程ありますのでご希望の方に差し上げます。ご希望の方は有馬までお声をかけてください。 2018年10月05日

詩 「謝罪」

 「謝罪」 (詩・小野省子 『おかあさん、どこ』より) 「おかあさん、ごめんなさい」 眉間のしわをうかがいながら 幼い娘は おびえた声をあげた 無力の者の謝罪はせつない 私は 後味の悪いつばを飲みこんだ 窓の外で 五時のチャイムが鳴っている 部屋の中に 夕闇がしのびこむ あと数年で 未熟な母を飛びこえて 幼い娘は 成熟した子供になるだろう そして私を見下ろして言うだろう 「お母さん、ごめんなさい」 その時私は 自分が無力の者になったことに気づく ※松居和先生から「おかあさん、どこ」(詩・小野省子さん)という小さな詩集をいただきました。20冊程ありますのでご希望の方に差し上げます。ご希望の方は有馬までお声をかけてください。 2018年10月05日

詩 「一人でできることが」

 「一人でできることが」 (詩・小野省子 『おかあさん、どこ』より) 「一人じゃなんにもできないくせに!」 そうののしった私を 幼いあなたは 決して忘れはしないでしょう そして未来のあなたは私のことを 「一人じゃなんにもできない人だったのだ」と そう思い出すでしょう そうです 子供にそんなことを言う大人は 一人じゃなんにもできない人です お母さんはそういう人でした だけど あなたのおかげで 一人でできることが 一つずつ 一つずつ ふえていったよ ※松居和先生から「おかあさん、どこ」(詩・小野省子さん)という小さな詩集をいただきました。20冊程ありますのでご希望の方に差し上げます。ご希望の方は有馬までお声をかけてください。 2018年10月05日