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クリスチャンの家庭の子どもの育ち

 西荻学園幼稚園はキリスト教主義の幼稚園ですから、クリスチャンのご家庭のお子さんがほぼ毎年入園されます。そこで、今回は特にクリスチャンのご家庭のお子さんの育ちについて、注意点を考えてみます。  聖書の語る人間観は大きく二つあります。一つは、人はみんな神さまによって命を与えられた尊い存在であるというものです。これは、人権の基礎であり、人間の尊厳を教える大事な人間観です。もう一つは、「罪」の理解からくる強い倫理観を伴う人間理解です。この二つ目の点が、場合によっては子どもを強く抑圧し、育ちの力そのものを委縮させてしまうことがあります。  子どもが育つというのは、それまで自分を定めていた「枠」を「自分の意志で」、「自分らしく」、乗り越えていくということです。その時に、強すぎる枠に囲まれると枠を乗り越えることがとても困難になります。「自分らしく生きる」という育ちの力に対して、「クリスチャンとして相応しく育て」という外部の強い力が働くからです。  現在の日本にはクリスチャンは1%程です。クリスチャンとして子どもを育てようと意識している家庭となると更に少ない数になります。これは、クリスチャンとして育てられている子どもは、絶対的な少数派に属するということです。念のため申しますと、少数派だからいけないということではありません。少数派であるという事実を受け止めなければいけないということです。少数派として、クリスチャンとしての自分を発揮することに慎重にならざるを得ない、という子どもの現実を重く受け止めてあげて欲しいと思うのです。  子ども同士の間であっても、クリスチャンであることが必ずしも肯定的に受け止められるわけではありません。教育された「罪」の意識からお友達を注意すると、「攻撃」していると相手にも、さらには教師にも受け止められかねません。自分らしく生きようとすると「クリスチャンのくせに」と攻撃されます。神さまを信じていることを馬鹿にされます。繰り返しますが、少数派であるということを理解してあげてください。程度の差はあれ、大人のクリスチャンが社会で経験する少数派の困難を子どもの世界でも経験する可能性が大いにあるのです。  家庭で「クリスチャンらしく」と言われ、外では少数派となってしまうとなると、いったいどこで子どもは「自分」を発揮して、ありのままに生きればよいのでしょうか。どこで「自分

詩 「よその家」

 「よその家」 (詩・小野省子 『おかあさん、どこ』より) 他人の子が とてもかわいく見える時がある 聞きわけがよくて 素直で 優しくて 明るくて まあ、なんてかわいいのかしら あの子は! その時ふと 娘の視線の先に気づく 娘はよその子のママを見ている きれいで やさしくて 歌やお話が上手なママを! 娘はそっと 私の手をにぎる 私もそっと 娘の手をにぎる それから手をつないで 帰る 私たちのおうちへ ※松居和先生から「おかあさん、どこ」(詩・小野省子さん)という小さな詩集をいただきました。20冊程ありますのでご希望の方に差し上げます。ご希望の方は有馬までお声をかけてください。 2018年10月05日

詩 「抱きしめたくなる」

 「抱きしめたくなる」 (詩・小野省子 『おかあさん、どこ』より) お母さん、私 どうやったらまた 赤ちゃんに戻れる? 小さくなったら ごはん食べさせてくれる? だっこでねかせてくれる? 娘のそんなささやきを 哀しく思うし 愛しく思う 病院で初めて弟を見た時の 不安げな顔を思い出し 小さな体を ぎゅっと抱きしめたくなる お母さん、私 どうやったら早く 大きくなれる? 一人で歩いて 幼稚園に行きたいの 一人で遊びに行きたいの 娘のそんなつぶやきを 寂しく思うし 嬉しく思う 漠然とした遠い何かに向かって 確実に進んでいるその小さな体を 「まだ行かないで」と ぎゅっと抱きしめたくなる ※松居和先生から「おかあさん、どこ」(詩・小野省子さん)という小さな詩集をいただきました。20冊程ありますのでご希望の方に差し上げます。ご希望の方は有馬までお声をかけてください。 2018年10月05日

詩 「無駄」

 「無駄」 (詩・小野省子 『おかあさん、どこ』より) 「私の人生に無駄なものなど一つもない」 そんな よく聞くセリフを言うような人は 傷つきやすい臆病な人間だ 散らかった部屋の真ん中で うっかり赤ん坊と一緒に寝てしまい 目をさましてから 頭をかかえて後悔 流しの中に積まれた食器 かごいっぱいの洗濯物 そんなものさえ  何かの糧になっているんだと思わなければやっていけない そんな 自分を責めることに臆病な人間 私はそういう幸福な人間をめざそう 「無駄なものなど一つもない」 そう自分に言い聞かせながら 平安の日々を手に入れよう ※松居和先生から「おかあさん、どこ」(詩・小野省子さん)という小さな詩集をいただきました。20冊程ありますのでご希望の方に差し上げます。ご希望の方は有馬までお声をかけてください。 2018年10月05日

詩 「重み」

 「重み」 (詩・小野省子 『おかあさん、どこ』より) 自分が少し悲しむと お母さんがすごく悲しむから それがつらいと娘が言った 自分が泣いていると お母さんがすごく気にするから それが嫌なんだと 私をにらんだ ああ こうして親たちは やわらかな手かせ足かせとなるのだろう あたたかな鎖をからませるのだろう 多くの子供たちが その重みで 何かを思いなおすのだろう 何かを思いとどまるのだろう 投げやりに進み始めた歩みは止めて 声をあげて引き返すのだろう ※松居和先生から「おかあさん、どこ」(詩・小野省子さん)という小さな詩集をいただきました。20冊程ありますのでご希望の方に差し上げます。ご希望の方は有馬までお声をかけてください。 2018年10月05日

詩 「謝罪」

 「謝罪」 (詩・小野省子 『おかあさん、どこ』より) 「おかあさん、ごめんなさい」 眉間のしわをうかがいながら 幼い娘は おびえた声をあげた 無力の者の謝罪はせつない 私は 後味の悪いつばを飲みこんだ 窓の外で 五時のチャイムが鳴っている 部屋の中に 夕闇がしのびこむ あと数年で 未熟な母を飛びこえて 幼い娘は 成熟した子供になるだろう そして私を見下ろして言うだろう 「お母さん、ごめんなさい」 その時私は 自分が無力の者になったことに気づく ※松居和先生から「おかあさん、どこ」(詩・小野省子さん)という小さな詩集をいただきました。20冊程ありますのでご希望の方に差し上げます。ご希望の方は有馬までお声をかけてください。 2018年10月05日

詩 「一人でできることが」

 「一人でできることが」 (詩・小野省子 『おかあさん、どこ』より) 「一人じゃなんにもできないくせに!」 そうののしった私を 幼いあなたは 決して忘れはしないでしょう そして未来のあなたは私のことを 「一人じゃなんにもできない人だったのだ」と そう思い出すでしょう そうです 子供にそんなことを言う大人は 一人じゃなんにもできない人です お母さんはそういう人でした だけど あなたのおかげで 一人でできることが 一つずつ 一つずつ ふえていったよ ※松居和先生から「おかあさん、どこ」(詩・小野省子さん)という小さな詩集をいただきました。20冊程ありますのでご希望の方に差し上げます。ご希望の方は有馬までお声をかけてください。 2018年10月05日

詩 「せんぱいママ」

 「せんぱいママ」 (詩・小野省子 『おかあさん、どこ』より) 大切なのは 愛情よりも根性なのだと その人は笑った こぼれ落ちるほどの 愛情に満ちた笑顔で 根性のない愛なんて ただの泣きごとなんだと その人は笑った まぶしい黄色のタンポポが やわらかな綿毛に変わるように その人はふいに笑うのをやめて 「だけど、私もいっぱい泣いたよ」と、 やさしく言った ※松居和先生から「おかあさん、どこ」(詩・小野省子さん)という小さな詩集をいただきました。20冊程ありますのでご希望の方に差し上げます。ご希望の方は有馬までお声をかけてください。 2018年10月05日

詩 「強さ 弱さ」

 「強さ 弱さ」 (詩・小野省子 『おかあさん、どこ』より) お母さん怖いよ、と しがみつく娘の頭をなでながら 「大丈夫よ、大丈夫。 あんなのちっともこわくないの」と 言い聞かせる こうして私は彼女のために 一つずつこわいものを失って 少しずつ強くなる だけどそれとは反対に 気づいていくのだ 彼女は 少しずつ少しずつ 安心しきって抱かれていたその腕が ただの 弱い女のものだったということに ※松居和先生から「おかあさん、どこ」(詩・小野省子さん)という小さな詩集をいただきました。20冊程ありますのでご希望の方に差し上げます。ご希望の方は有馬までお声をかけてください。 2018年10月05日

見ているだけの子

子どもたちには、遊びに入らずに「見ているだけ」の子がいます。かくいう私自身も幼稚園の頃は見ているだけのことが多い子だったそうで、「この子、大丈夫かしら」とずいぶん心配されたそうです。  先生が「さあ、~をしましょう」と誘っても加わらずに見ているだけです。こういう子がいると若い先生は遊びに加われるようにと様々に声をかけますが、うまくいきません。それで先生は自分の力不足を感じてしまい、親は心配してしまうのですが、これは先生の力不足の結果ではありません。「心配無用」です。  見ているだけの子どもの状態について学問的な解説をすると、発達心理学者のM・B・パーテンは、見ているだけで遊びに加わらない子を「傍観的状態」と呼んで、その先にある「協同あるいは組織的遊び」への第一歩と位置付けています。またバンデューラという心理学者は、学習は自分が体験しなくても、他者の行動を観察することによっても成り立つことを実証しています。  見ているだけの子は、決して気が弱いのでも、寂しい思いをしているのでもないのです。目の前の遊びを観察して学習し、そこに自分が加わるタイミングを自分で計っている最中なのです。「よし!」と決意が固まれば、自分から進んで「入れて」「やりたい」と明確に意思を表します。むしろ、見ているだけの状態をきっちりやらせた方が良いと考えています。「見ているだけじゃダメ!」と無理に誘って、強引に遊びに加えても子どもにとって良いことはないでしょう。また、「それなら別のことをする?」と別の遊びを促すというのもお勧めしません。それらは、見ているだけという準備段階の中にある子どもの興味関心を破壊してしまうことです。形ばかりは遊びに加わっても、そこに子どもの主体的行動はありませんからすぐに「やめた」となります。子どもがその遊びを通して得るものは不快感だけです。  子どもを見守るというのは忍耐のいることですが、子どものために何もしないという選択も大切なことです。「やりたくなったら、やるでしょう」というくらいに気長に楽観的に構えているのがいいのです。 2018年10月04日

根拠のない自信をたっぷり育てましょう

 以前も紹介した児童精神科医の佐々木正美先生は「子どもを育てるときにもっとも大切なことは、子どもの心の内に、生きていくために必要な『根拠のない自信』をたっぷりと作ってあげることです」と記しています(佐々木正美著『はじまりは愛着から』福音館)。  「根拠のない自信」とは何のことだろうと訝しく思われるかもしれませんが、幼児教育の現場にいる者には、佐々木先生の言われることがとてもよくわかります。「根拠のない自信」の育っている子は、遊びが大好きで、そして上手です。「やってみたい」という思いがいつもあって、様々なことに挑戦しています。そして親に対して見事な「甘えん坊」です。言い換えるなら、幼児期を幼児として生き抜いているという意味で、「子どもらしい」のです。  「根拠のない自信」は第一段階として乳児期の「基本的信頼感」を意味します。やってほしいことを誰かにやってもらうことで、その相手を信じる力が育ちます。乳児期はやってほしいという要求ばかりです。母親や父親が要求を聞き入れてあげることで、人を信じる力がしっかりと身につきます。それは次に幼児期に人を信頼し、ひいては自分自身を信じていくことに繋がっていきます。  このように言うと「過保護」になりはしないかと心配されるかもしれません。しかし心配は無用です。「過保護」というのは、子どもが要求していないものを親の都合や満足を優先して過剰に押し付け、結果として子どもの生きる力が育つことを邪魔してしまうことです。ここで申し上げているのは、子どもの要求に応える、ということです。そのためには少なくとも0~2歳までの乳児期は子どもが信じる存在(ほとんどの場合は母親)が要求を常に聞けるように傍にいることが大事になります。いないということは、そのまま要求が無視されるということに繋がります。もちろん100%一緒にいて要求に応えることはできるはずがありません。しかし要求に応えようとすることこそ、乳児期の子の親の頑張りどころです。親が「自分は過保護ではないか」と思うくらいに子どもの要求に付き合うくらいがいいのです。  全面的に受容される時期が守られ、受容された経験があればあるほど、人間は自立していきます。  以前、幼稚園で本当に手がかかり、教師を悩ませたお子さんのお母さまから小学校での様子をお聞きしたときに、こんなことを言ってくださいました。「この子は、大

「ウソ」を考える

 人間はだれでもウソをつきます。一つは自分自身を守るために、もう一つは相手を守るためです。例えば、自分のみじめなところを知られたくないので言い繕うことをします。また、そのまま伝えると相手を傷つけたり不愉快にするという時に言い繕います。私たちは普段、相手との関係を意識して言い方や内容を変えています。時には正反対のことを伝えたりします。つまりウソをつくのです。  言葉を相手との幸せな関係のために使うときにもウソは発生します。自分のためであれ、相手のためであれ、その後の関係を良いものにしたいという欲求として、悪意があって言うものではないですから、潔癖にウソを否定することは現実的ではないのではないでしょうか。  多くの場合、頭ごなしに「ウソはダメ!」、「違うでしょ!」と親の方は感情的になって、子どもなりの幸せへの気遣いを無視して自尊心を傷つけるような叱り方をしてしまいます。親として、子どもを嘘つきにしたくないという思いはとても良く分かるのですが、気遣いと自尊心を無視した叱り方を続けると、逆に子どもはウソが上手になっていきます。叱られた子は、次はばれないようなウソ、上手なウソをつくために努力を始めるのです。  繰り返しますが、子どもがウソをつく一番初めの理由は、自尊心が傷ついて自分が惨めにならないように、相手を傷つけて悲しませないためにという、どちらかというと美しい気持ちから始まっています。その点を受け入れてほしいと思います。  子どものウソは大人にはすぐに見分けられるものです。大切なのはウソだとわかっているということをどう子どもに伝えるかです。頭ごなしに感情をぶつけて叱りつけると会話が終わってしまいます。ウソへの対処には、できるだけ穏やかにウソとわかっていることを伝えて、さらに会話を継続させるようにすることが求められます。ウソを言われてむしろ悲しいと感じられたなら、そのことをできるだけ穏やかに伝えてください。繰り返しますが、幼い子は幸せな関係を成立させようとしてウソをついてしまっています。大人はそういった子どもの気持ちを受け入れていることをできるだけ穏やかに伝えるように努力してください。そうすれば、子どもは「悪意あるウソつき」になったりはしません。 2018年10月02日

思いやりは喜びから

「思いやり」という相手に共感する感情は、人間が社会生活を他人と一緒に幸福に生きていこうとするならば、極めて重要な感情です。一般に、思いやりは幼いころから思いやられて育ってきたことが不可欠な前提だと言われます。思いやられるとは、具体的には喜びを与えられるということです。そのために喜ばせてもらう機会や時間が多いことが大切です。重要なのは、喜びの体験の重さや深さよりも、機会や時間といった「量」を必要とするということです。  発達心理学者の観察によると、母親に喜びを与えてくれることを要求する子どもは、同時に、母親自身も喜びを感じてほしいという高度な感情を抱いていくそうです。  人は、大事な人と喜びを一緒に体験したいと求めるのです。相手と一緒に喜びあうことが、より深い喜びとなるという経験を重ねていくと、やがて相手と悲しみを分かち合うことのできる「思いやり」の感情が芽生えてきます。そして、喜びと悲しみを共有することによって人間的なコミュニケーションが成立発展していきます。「思いやり」は、相手と悲しみすらも分かち合って生きることができる社会構築のための高度なコミュニケーションの土台となるものです。それは実は、最も身近な人と喜びを分かち合う経験が十分にあってこそ生まれ、育っていくのです。  このことを親の側から見ると、親自身が子育ての中で喜びを実感することが、子どもの中に「思いやり」を育てるということになります。  佐々木正美先生(児童精神科医)は、親自身が子どもに喜びを与えるということについて、「まず子どもが喜ぶことを何でもしっておかなくてはいけないでしょう。そして、そのうちのどんなことに、自分も喜びを感じながら行動できるかを、自然に無理なく見いだして、実行すればいいのです。親自身も喜ぶことができる活動なら、困難や苦痛があるはずありません」(佐々木正美著『はじまりは愛着から』福音館)と言われています。食事やおやつ、入浴など毎日の繰り返しの中に、素晴らしい時間があります。  最後に「思いやり」を育てる中で最も避けなければならないのは、子どもの「自尊心」を傷つけないことです。悲しむ子どもを決してからかってはいけません。悲しむ子にかける言葉がないのなら、黙って一緒にいることでも慰めになれるのが「親」という尊い存在です。 2018年10月01日

言葉は幸せな関係のためにある

 先日行われた9月の父母の会でお話ししたことです。  日本語の言語学者の金田一秀穂先生がご講演の中で、言葉は「正しい言葉があるわけではなく、仲良くなるためにあるんです」とお話ししておられました。そして、「子どもは敬語をつかえなくていい」と言います。  例えば、おばちゃんが子どもに飴をあげました。もらった子は母親に「ありがとうって言いなさい」と言われて、「ありがとう」と言いました。そうしたら、おばちゃんは「いい子ね」とにっこり笑って褒めました。そこでもし、飴をもらった子が「この度は結構なものを頂戴いたしました。まことに恐れ入ります」と言ったら、気持ち悪いですね。もうそれは子どもの言葉ではないのです。おばちゃんと子どもの関係が居心地の悪いものになってしまいます。  そこで金田一先生は、「子どもというのは敬語が使えなくてよい、敬語が使えない子どもがいたら安心してください」と言われるのです。金田一先生は、「言葉というのはあくまでも道具であって、『正しい言葉』に私たちが従わなければいけないわけではない」とも言われました。そして、「敬語というのは一人前にならないと使えない言葉なんです。というか、一人前であることを示す言葉が敬語なんです。ですから子どもは敬語を使っちゃいけないんです。子ども扱いされる存在だから、敬語を使うことは許されないんです。でも、大人になったら一人前であることを示さなきゃいけませんから、必死に敬語を勉強しなければいけないんです。」「使われると気持ち悪い、自然に嫌だなと思う。その嫌だなと思う気持ちを大切にしてほしいんです。」この金田一先生の言われることはとても大切な視点だと思います。  私たちは言葉を使って何をしているのでしょうか。コミュニケーションです。人間同士が「いい関係」を作るため、互いに「仲良く」なるため、互いに「幸せ」になるために言葉という道具を使うのです。正しい言葉を使うことは大切です。しかし、正しい言葉でなければ使ってはならないということになったら、私たちは言葉を失ってしまうのではないでしょうか。人間関係は「正しい言葉」よりも大切なものです。言葉は幸せな人間関係のために使われるべきものです。  夏休みが終わって積極的に話し始める子がいます。とても良い「言葉の経験」をしてきたのでしょう。「この子がこんなにお話しするようになったのか」と驚き、うれしくな

一緒にする経験

 暑さがどれほど続くかと思いましたが、9月も半ばを過ぎると涼しい日が続くようになりました。秋の訪れを感じています。子どもたちは毎日、お友達と力を合わせて運動会の練習に励んでいます。C組にとっては、ラインに沿ってお友だちとまっすぐに走ることもおよそ初めての経験ですが、運動を楽しみながらお友だちを応援する声もだんだんと大きくなっていきます。A・B・C各クラスの練習を他のクラスの子が見ると、自分たちもやってみたいと思うようです。  幼い子どもたちは、他の人がしたことと自分自身がしたこととの間に区別をつけないということが時折起こります。これは経験を得て成長しようとするときの自然な姿です。家族や、お友だちがしていることや、やってくれたことを見て、あたかも自分自身がそれをしたかのように経験として蓄えるのです。経験というのは本来、未知の事への挑戦からはじまります。自分にとって未知のことを行っているお友だちに自分自身を重ねることで、未知を既知へと変え、実際に行う前に心構えと道筋を準備するのです。運動会の練習で、多くのお友だちの成功や失敗に共感する子どもたちは、そのことを通して自分自身を応援し、励まして、一所懸命に可能性を開拓しています。運動会まであとわずかです。子どもたちの健康が守られ、お天気に恵まれ楽しい運動会を迎えられるように願っています。 2018年09月28日

段階をふんで育つ大切さ

 「まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」 上記の言葉は、聖書のマルコによる福音書4章28~29節の言葉です。麦の成長には順序があって、それぞれの段階を疎かにしたり、ましてや順序を飛ばして豊かな収穫を得ることはできません。 人の成長においてもきちんと段階をふんで育つことが大切です。例えば子どもが歩くようになるには4つの重要な段階をふんでいきます。 第1段階 手足を動かすが、体を移動させるためには手足を使えない「移動しない運動」の段階。 第2段階 腹部を床に押し付けながら決まった方法で手足を動かしてAからBへと動けることを覚える「腹ばい」の段階。 第3段階 重力に逆らって、自分の手と膝で体を起こし、腹ばいより巧みな技術をもってAからBへと動き回るようになる「四つんばい(はいはい)」の段階。 第4段階 自分の脚で立ち上がり、歩くことを覚える「歩行」の段階。 この4つの段階は、各段階が次の段階に不可欠前提となっています。このことから成長において新しい段階を獲得できるかどうかは、その前段階を確実に終了できたかに全面的にかかっているということです。 早く自立させようと急かして歩かせる弊害について以前、前段階が十分に獲得できないままに次の段階への移行をを強制されると、前段階を獲得することで置き換えられるべき機能が残り続ける、ということを聞きました。どういうことかというと、例えば反射行動が「腹ばい」や「四つんばい」の状態の乳児のまま「歩行」の段階にいたってしまうと、その後の反射によって生じる運動は「腹ばい」や「四つんばい」の乳児が身を守ろうとする動きが残り続けることになります。そのため大きく激しくなる少年期の運動に適切に体がついていけないといったことや、転倒した時に頭や腹を守るために手をつくことができず、大怪我につながることもあるのです。 前回、習い事のことを記しました。やってみて楽しめればよいし、興味を示さないならやめた方が良い。そして将来興味を持ったならその時改めてはじめればいいと記したのは、この段階をふんだ成長という視点からも重要な態度だと考えるからです。興味を示し、楽しめるということはそこで得られるものを成長の段階として子どもが欲しているということです。興味を示さないのは、まだそれを得るべき段階にいたっ

習い事・おけいこごと

保護者の方からお子さんの習い事について相談されることがあります。 最近のお子さんはピアノ、バレエ、ダンス、チアリーディング、英語、水泳、サッカー、空手、受験のための私塾など実に様々な習い事に通っていて、朝幼稚園に来ると「疲れたー」と言って先生に寄りかかって外遊びを嫌がるということも見られます。お子さんが習い事で疲れてしまうことは保護者の方も心配していて、どれを続けさせてどれをやめさせるかも悩みどころです。 私が習い事について考えたときに、大変参考にさせていただいた本を紹介します。杉山由美子氏の『お子様おけいこごと事情』(婦人生活社)という本です。この中で、最初は習い事をさせることに杉山さんは懐疑的でしたが、周りの子どもたちは皆習い事に通っていました。そこで、どんな習い事がいいのか様々な習い事や早期教育教室を取材してレポートしています。取材を続ける中で習い事に懐疑的だった杉山さんも、現代の子育てが習い事を必要としている背景が見えて、時代に逆らえないという思いを持たれます。「何のためにおけいこごとをさせるのか」「その子は将来良かったと思えるか」「おけいこごとを通してどんな大人になってほしいと自分は考えているのか」と杉山さんは自問します。そして、こう記しておられます。 「何のためにおけいこごとをさせるのかと言ったら、集中してひとつのことをする喜びを知るためである、と今は断言できる。その意味では何でもいいのだ。」 幼児期の子どもは、どんなことでもいいので夢中になって、没頭して取り組むことのできる体験こそが大切です。その意味では何の習い事を初めてもいいですし、始めたら続けなければならないということもありません。何かを夢中になって体験し、体験したことで成長を得ることが自信を育てます。習い事を専門的に極めるのは、成長の順序から言ってももっと先のことです。出来れば、初めて楽しさを知って、いったんやめてしまっても、またやりたくなって再開するというくらいの余裕があるといいのです。幼児期の体験は「浅く、広く」と考える方が良いのです。多種、多彩な経験こそ幼児期の最重要な経験です。習い事は親も子も縛るように感じたらやめてしまうくらいのつもりの方が良いと思います。また、一度の体験では興味を抱かなったことに、ある日突然取り組むようになるのが子どもたちです。 習い事は、親も子も縛られない程度に楽し

個性の輪郭

 個性は、親や先生が「この子はこういう子である」と評価して決められるものではありません。そもそも人間は皆、個性的な存在として生まれています。神さまによって唯一の命を与えられている私たちは工業製品ではないのです。 問題は、個性的な存在である人間が何故個性を失うような事態がおこるのか、ということです。一つは幼児期の「善意からの抑圧」が関与しています。 「家族でハンバーグがおいしいと評判のレストランに食事にいきました。子どもに『何でも好きなものを注文していいのよ』と言ったところ、子どもは『エビフライ』を選びました。すると、『ここはハンバーグがおいしいお店だから、ハンバーグにしなさい』と言い、みんなでハンバーグを注文することになりました。」 欲しいものを欲しい、好きなものを好き、嫌いなものを嫌いと表明したとたん、「こちらの方が良いから合わせなさい」とたしなめられるような環境で個性の輪郭は削り取られます。 「好きと嫌い」は、人の個性の輪郭を形づくる根っこの部分です。同じ5歳でも水遊びが好きな子もいれば嫌いな子もいます。人間は好きなものと嫌いなもの、得意なものと苦手なものがあって当たり前、という前提を身に着けることが大切です。日常的にふぞろいな世界が広がっていることを知り、不揃いな存在同士だということを身をもって経験する方が集団で合わせることの美しさよりも幼児期には貴重です。言い換えるならば、個性を尊重するとは「あなたと私は違っていて当然」ということです。それは良い悪いと評価されるものではありません。 大人はいつも世間体の方を子どもよりも大事にします。知らず知らずのうちに善意からそのことが現れてきます。例えば、父の日のプレゼントとして子どもが父親の顔を描き始めたときに黙って最後まで先生や母親が口出しせずにいられるか?案外できないものです。子どもの描く絵は「おかしい」のが当たり前です。それを見て、「お父さんの目はそんな色だっけ」とか「髪の毛がないけどいいの?」とか、「耳がないのはおかしい」とか。いかにも父親が見て「喜ぶ」ように善意から矯正してしまいます。実際、背の小さな子どもの目線から背の高い父親の顔は、おでこから上の髪の毛が見えないのです。幼児期は色覚も発達している最中ですし、目線が変われば光線の入り具合も変わるのは当然ですから黒や茶ではない色が見えることもあるのです。目を描く

小さな声でありがとう

 子どもを褒めて育てる、という教育論が一頃流行りました。これは提唱された時は「褒めるだけ」の教育論ではなかったのですが、マスコミによって取り上げられている間に、いつの間にか「褒めるだけ」の極端なテクニックとして紹介されるようになり、弊害が問題視されるようになりました。幼少期から何かをすると褒められるという環境に置かれると、大人になってからも「褒められる」という外発的動機がなければ動けない人間になってしまうのです。子どもを都合よく「褒める」ことでコントロールできるというテクニックになってしまったのです。確かにこれは危険です。  では、どうすればいいのでしょうか。橋井健司という園長先生がその著書(『世界基準の幼稚園』光文社)の中でこの「褒めて育てる」ことを取り上げてその危険性に触れて、自分は「そっとその子に近づいて『ありがとう』『先生、助かった』と小さな声で感謝の気持ちを伝えるようにしています。間違っても『えら~い!』と大げさにほめたり、みんなの前でその子のおこないを発表したりはしません」と書いていました。これは見倣うべき対応だと思います。特に「そっとその子に近づいて」というところがいいのです。園長先生とその子だけの小さな世界が満たされます。  この方の著書を読んでいただくのが良いと思いますが、私なりに要約してお伝えすると、「えらい」とほめることと、「ありがとう」と感謝を伝えることの違いは、行動の結果が自分の利益になるか、他人への貢献となるかの違いです。この考え方に私も賛成します。自分の行いが誰かの役に立ったという、あの独特の充実感は子どもの内に自尊心を育てます。ぜひお子さんにそっと近づいて、小さな声で「ありがとう」、「助かった」と言ってみてください。 2018年09月20日

幼児教育のPDCAサイクル?

幼稚園教育要領の改訂に伴い、その解説も多く出版されました。文部科学省も解説を公開しています。その中に「カリキュラム・マネジメント」という言葉が登場しました。 カリキュラム・マネジメントについて文部科学省も含め一般にこのように解説されています。「カリキュラム・マネジメントとは、幼稚園の教育目標の実現に向けて、子どもの地域でや家庭での生活の実態を踏まえ、教育課程を編成、実施、評価し、その上で改善を図るという、教育課程の一連のPDCAサイクルを計画的・組織的に実施していくこと」(「幼児期の終わりまでに育ってほしい10の姿」無藤隆編著、東洋館出版社)。 ここで問題と感じているのが、幼稚園の教育についてのPDCAサイクルを実施すべきという理解です。Plan(計画)→Do(実行)→Check(評価)→Act(改善)というサイクルとして運営されるのがPDCAサイクルです。 幼稚園組織運営をPDCAサイクルで評価するという提言は、まだ理解できます(それですらも、近年の幼稚園を巡る環境の変化に対応するには不適切となった、と私は考えています)。しかしPDCAで毎日の保育を回せというのはナンセンスです。もちろん結果を振り返り、改善を継続的に行うことは大切です。例えば「ヒヤリハット」のような改善計画や避難訓練のような「幼児の意志」を無視してでも従わせなければならない計画に対してPDCAサイクルは有効でしょう。しかしPDCAサイクルは、「計画」をもとに評価改善するサイクルであって、刻一刻と変化し成長する子どもの姿や取り巻く環境を「後追い」しかできないということです。逆に「先回り」をした計画を実施するというなら、結局は旧来の「一斉型保育」にしか対応できないと言わざるを得ません。子どもを計画通りに動かせたかどうかが評価対象になり、改善の主たる面になってしまうからです。これは、どちらの場合も子どもの主体的活動のサポーターとしての役割を果たせないことになってしまいます。 幼稚園教師が直面するのは、刻一刻と変化する幼児期の子どもの成長欲求です。そこで求められるのは、子どもの姿を計画に合わせて強制することではありません。不安定で不確実で複雑で曖昧な状況です。そこで教師に求められるのは状況を観察し、直感的に状況判断を下すということです。大切なのは、行動の前の瞬時の状況判断です。この状況判断に、「幼稚園の教

子どもを主体的にする主体的教師

 幼稚園教育要領は、子どもの活動について「主体的」であることを求めています。「主体的」というのはつまり、子どもが主役になってするということですが、この言葉を聞くと「それでは子どもについていればいいのですか」、「子どものやりたいようにさせればいいのですか」という人がいます。これは「主体的」の具体的な姿を「放任」と翻訳して理解しているという証拠です。なぜそういうことになってしまうのかというと、「一斉型保育」が幼稚園の主流であった時代があるからです。当時は子ども数が多く、一クラス40人を一人の幼稚園教師が担任するということもありました。そのような状況では一斉型保育にせざるを得なかったのです。しかし今後はさらに少子化が進むことが予想されます。クラスの規模も少人数化に進んでいます。子どもの発達について、これまで経験則から予想されていた子どもが「主体的」であることの重要性が、目覚ましい研究によって科学的検証と実践をもって確認されてきました。それらを踏まえて学ぶ者にとって、今の保育の志向が一斉型保育の頃と同じであっていいわけがありません。私は一斉型保育の「小学校への接続のために」という迷信から早く日本の教育は解放されなければならないと思っています。現在の「小1プロブレム」の主たる原因は、子どもから主体的活動を奪う「一斉型保育」と「放任」にあると考えています。 子どもの「主体的」な活動というのは「放任」とは全く違います。「主体的」の具体的な方向性は「自責」ということです。一斉型保育が「先生に言われたから従う」という「他責」に根ざすのに対して、「自分で決めたから行う」という子どもの「自責」の活動ということです。「自責」は一昔前に使われた「自己責任」という切り捨て論理とも違います。他人のせいにはしない、という主体性です。自責のもとで、「何で遊ぶか」、「誰と遊ぶか」、「どんなルールで遊ぶか」等々、子どもは決断していきます。その時、子どもの「成長しよう」、「学ぼう」、「知ろう」、という生命の最大課題の欲求が発揮されているのです。そこから子ども自身が秩序を作り、規範を思考し、抑制を選択します。しかし、知識と経験のない子どもたちは自分の選択や決断に満足できる結果を引き寄せることができません。そこで極めて重要な存在となるのが子どもの決断をサポートする大人であり、幼稚園であれば教師の存在です。 子

「主体的」を守る

 私たちの国には幼児教育について示す文部科学省の発行する『幼稚園教育要領』という文書があります。平成29年度に改訂され文部科学省のホームページから全文と解説を見ることができます。これは幼児教育に携わる者にとって非常に重要な文書です。  幼稚園教育要領の中に頻繁に出てくる言葉は「主体的」という言葉です。子ども自身の活動について記すところで使われています。他にも「自発的」、「自分で」「意欲的」という言葉が出てきます。幼稚園における子どもの活動は「主体的」であることが最重要だと伝えているのです。これは原型となった倉橋惣三らが中心となってつくられた『保育要領―幼児教育の手引き』(1948年刊行)から引き継がれている幼児教育の基本です。幼児期の子どもの活動は子ども自身が「主体的」であることが最重要なのです。  「主体的」とは「自分の意志・判断に基づいて行動するさま」という意味です。これはある場面では厄介なものです。例えば、園庭での集団遊びなど「みんな」で行う活動をしようとします。先生が「今日は~をしましょう」と呼びかけると「やったー」と喜んで参加する子がいる一方、「やらない」、「いや」という子もいます。そこで先生は子どもたちを「まとめる」ということに悩まされます。しかしこれは当たり前です。やりたくないことを無理強いされれば大人でも抵抗します。「みんなと同じことができないはおかしい」という価値観が「主体的」であろうとする子どもを妨げるのです。  「みんなと一緒」を強いられ続ければ、子どもは主体的に生きることを諦めるようになります。かつて集団に誘われると加わるのですが、こっそり私のところに来て「どうせやらせるんでしょ」と言う子がいました。「そんなことはしないよ」、「やりたくないんだね」、「他に何をやりたい?」「ここで一緒にいようか」と、何回もそんなやり取りをしました。  「やりたくないことでも周りに合わせてやらなければならない」ということも大事です。しかし集団への帰属意識や状況の客観視が未熟な幼児期に「みんなと一緒にできないとおかしい」と強制を繰り返すことは、長い目で見てマイナス面が大きいと思います。幼児園教育要領に「幼児期の教育は、生涯にわたる人格形成の基礎を培う重要なもの」とあります。人格形成の基礎において「主体的」であることを否定された子どもがどのようにその後の人生を生きて

一緒に遊ぼう

 幼稚園の園庭での出来事です。年長さんの女の子が2人、砂場でままごとをしていました。そこに年少の女の子がやって来て、「一緒に遊ぼう」と声を掛けました。年少の女の子はままごとに入れてもらいたかったのです。 「一緒に遊ぼう」「…」「一緒に遊ぼう」「…」、何度声をかけてもままごとをしている年長さん2人は一切応えませんでした。もちろん聞こえていないわけではありません。年少さんもあきらめません。「一緒に遊ぼう」「…」「一緒に遊ぼう」「…」「一緒に遊ぼう」「…」。 こういうやり取りを見ると、私たちは「聞こえないの」「ちゃんとお返事しなさい」「入れてあげなさい」と言ってしまいそうになります。年長さんのおねえさんなんだから、小さな子に親切にしなさいと「指示」したくなります。 しかし、ままごとに加わろうというのは年少さんの課題です。ままごとに入れてあげるか、拒絶するかは年長さんふたりの課題です。課題を奪ってはいけません。 「○○ちゃんは年長のおねえさんたちと一緒にやりたいんだね」と年少さんの思いを先生の声で年長さんに聞かせます。別の遊びに興味が向かないことも確認して年長さんにもわかるように確認します。ただし「入れてあげなさい」と先生は言いません。 黙っている年長さんは意地悪をして黙っているのではないのです。二人で作り上げている今の遊びの世界が大切なのです。壊されたくないのです。それは当然の心持ちです。どうしても入ってほしくない、というのも大事な選択です。しかし、小さな子の求めを無視することもできないのです。自分たちの遊びを維持しながら、新しい子をどう加えていくのか。彼らはとても難しい人間関係の課題に向き合っているのです。だから黙ってしまうのです。 年少さんは諦めずに「一緒に遊ぼう」と声をかけつづけました。年長さんは黙っていました。10分以上のやり取りです。こどもの遊び時間としては長く感じる時間です。年長さんの視野が狭くなって行き詰りそうなタイミングで、状況に目を向けさせるような声掛けを先生はします。年少さんを加えるためのきっかけとなるものに気づかせます。ついに「これを使っていい」と年長の一人が声を出しました。「こっちでやって」ともう一人が居場所を指示しました。ぎこちない中で3人でままごとが始まりました。3人の子どもがそれぞれの課題を達成しました。 「みんな仲良く」は大事なことです。で

一人遊び

 「お友達と一緒に遊べてますか?」というご心配をよく聞きます。保護者はお子さんとお友達のとの関係をとても気にされます。そのお気持ちはよくわかります。しかし、子ども同士の間で不和があったり、ケンカしたり、無視したりといった葛藤とトラブルがあるのが普通です。保護者や先生の見守りとサポートがある時期に基本的な人間関係の葛藤を経験しておいた方がいいと思っています。 成長とともに子どもの動きは大きく活発になって、保護者とすれば走り回る姿を見て衝突しないかとハラハラし、皆と離れて一人で大人しくしていると「いじめられてないか」と心配してしまうのが幼児期です。この時期の子どもたちは、周りからは友達同士で遊んでいるように見えても、実際は「一人遊び」の延長線上でかかわっている時期です。同年代ではなく大人との一対一の関係を求める子もいます。幼児期はどんどん視野を広げていきますが、発達心理の面からは、まだ主観と客観の区別が未分化だと言われます。物事を自分の視点や経験を中心にして捉えるため、自分が集団の一員であるという自覚はあるのですが、他の人のことを客観的に見ることができないために相手の「気持ち」を理解できる段階には至っていないのです。9~10歳ごろまで自分と周囲を区別できないという意見もあります(ルドルフ・シュタイナー)。 「一人遊び」は主観の中で生きる子どもにとって必然的な遊びの形です。無理にお友達と遊ぶことを強要されずに「一人遊び」に没頭していた子の方が客観視を始めた後のお友達との関係が上手にできるようになるようです。「自分の世界」を一人遊びを通して構築した子は、周囲から魅力的に見える、と言われた先生の話を伺ったことがあります。 逆に一人遊びが中途半端に中断されてきた子は、他の子に興味を持ち始めると、遊んでいたおもちゃを勝手に取ったり、苦労して皆で作った砂山を勝手に触って壊してしまうといったことをします。他の子は自分の遊びを取り上げられたり壊されたりするのですから、いい気分がしないのは当然です。さらにネガティブな特徴として、集中力が続かない、すぐに投げ出す、情緒不安定といった面が見られます。「一人遊び」は字を読めるようになったり、テレビ等の情報を楽しめる年齢になると難しくなります。手指をつかって夢中になれるような環境がなくなっていくからです。 コミュニケーション能力を駆使したアクティ

甘え上手な子はリーダーの素質があります

 「先生、見ててね!」、「ママはわたしといなさい!」、こんな風に母親や先生にくっついて離そうとしない子が必ずいます。心配して早く引き離す必要はありません。たっぷりと甘えさせてください。甘えさせるのは、何歳まででもいいのです。べったりと甘えていた子も、ある時を境に親や先生からどんどん離れて「ママは見なくていいの」「先生は向こうへ行きなさい」等と言って自分からお友達の中に入っていきます。しかもやがてお友達同士の遊びの中でリーダー的な存在になります。 思うに、甘えていた自分をどのように接して助けてくれたか、守ってくれたかを肌感覚でスキルとして覚えていくのではないかと思います。自分が頼りとされたときに、お友達を助け、喜ばせる接し方を選ぶことができるようになるのです。甘える子は、とても面倒見がよい子になります。 エリクソンという学者は、無条件の愛を受けた基本的信頼が自己への信頼を育てる、という趣旨のことを語っています。甘える自分を受け止めてもらったいくつもの経験は、他者への思いやりにつながります。ですから、子どもが甘えてきたらむしろ喜んで欲しいと思います。しっかりと甘える子の中で他人と協働する力が育っていると思ってほしいです。 しっかり甘えることができた子の育てるリーダーの素質は成長にともない大きな影響を持つようになります。一人で何でもやるのではなく、周りの力を借り、皆の力を束ねて、一人では達成できない難しい課題を乗り越えていくからです。これは集団知を形成することで、一人の天才を超える力を発揮して殆どの歴史を重ねてきた人類にとって極めて重要な素質です。 最近の小学校では「1/2成人式」というのをします。その時にある小学校では宿題として「親に抱っこされる」という課題を出す、という話を聞いたことがあります。小学校の高学年ともなれば、「抱っこして」と言うのも恥ずかしかったでしょうし、親の方もためらうこともあったでしょう。しかし実際に抱っこされた子は皆、満足した表情を見せ、「嫌だった」という子はいないそうです。逆に現代は、抱っこをねだるのも抱き上げるのもためらう必要のない幼児期に甘えきることができずに心の不安定さを持つ子どもたちが見られるということなのかもしれません。 いつまでもご自分にくっついて離れようとしないお子さんを「このままでは皆の中で孤立してしまうのでは?」と心配されたり「

幼児期の課題―「愛着形成」

 幼児期の愛着形成は、その後の成長に大きな影響を与えます。特に人が自発的な動機で物事を始められるかどうかに深く影響を与えると言われています。自発的な動機を持たない人間は、外部から動機を与えられないと動けないということです。いわゆる「指示待ち人間」を思い描いていただければよいと思います。  「愛着」はボウルビィ(Bowlby.j.)によって提唱された概念です。子どもはある特定の養育者(多くは母親)との間に親密な関係を維持しなければ、社会的、心理的な問題を抱えるようになる、というものです。子どもはたった一人の養育者(父親には申し訳ありませんが、殆どの場合母親です)を心の拠り所として、その人との間に愛着を形成することで、課題に挑戦する意欲が湧いてくるのだと言います。たった一人の養育者に対して、子どもは「自分は無条件で愛されているか」、「誰よりも優先して庇護されているか」を常に推し量るのです。その条件が満たされないと、子どもは成長する中で他者への関心を正しく抱けず、さらに熱心にたった一人の養育者の関心を引くことに傾くために、新しい課題に挑戦する意志が湧いてこないのです。自発的な動機が芽吹かないのです。  「愛着」を作るための子どもの努力は生後6か月頃から始まり2歳頃まで活発に現れます。その間、養育者の注意を引くために泣いたり、微笑んだり、声を出したり、身振りを示したり、しがみついたり、後ろを追いかけたり、聞き分けのない態度をとったり、わざと嫌いと言ってみたり、様々な行動を通して養育者が自分に関心をもって傍にいるのかどうかを確認します。私の見てきた幼稚園の子どもたちは、まさしくこのような行動を取ります。このような行動によって「愛」を求める子どもに養育者が応えるというやり取りの中で「愛着」は形成されます。この形成のタイムリミットが「6歳頃まで」と言われるのです。  日本には、「つの付くまでは膝の上」という言葉があります。ひとつ、ふたつ、みっつ、と歳を数えて「九つ」(9歳)までは子どもの求めに応えて膝の上に座らせてあげなさい、という意味の言葉です。6歳どころか9歳までかけて大事に育てるのが「愛着」だと理解されていたのです。明治維新の頃、まだ江戸を訪れた外国人は、子どもたちの求めに大人が喜んで応えて膝の上に座らせ、子どもたちが幸福を感じてのびのびと安心して遊んでいる姿を見たとき、「

命と死と

 西荻学園幼稚園はキリスト教会が設立したキリスト教主義の幼稚園です。園長の私は、牧師と園長を兼務しています。今週は牧師としてお二人の方のご葬儀をしました。お二人ともお子さんたちに見守られて息を引き取られました。ご葬儀は、故人へのお子さんたちの感謝の思いで満たされた涙のご葬儀でした。朝、命の輝きにあふれる子どもたちを元気に幼稚園に迎え、その後死者を涙をもって教会から送るというのは牧師と園長を兼務しているからこその経験です。  人の死は、その人の生を写し出します。牧師として沢山の方の死に立ち会う機会がありました。社会的に大変な成功を収めた人が、「死んだら呼んでください」と言われて、子どもから捨てられて死んでいく様を見ました。亡くなったことを知らせたら、「面倒なので適当にしておいてください」と言われた施設の方のお話も聞いたことがあります。  「あなたが生まれたとき、周りの人は笑って、あなたは泣いたでしょう。だからあなたが死ぬときは、あなたが笑って、周りの人が泣くような人生を送りなさい。」(アメリカ先住民のことば)  幼稚園の子どもたちはもちろん、保護者の方々も今は若く、老いや死は実感のないものでしょう。しかし、誰にでも衰える時があり、死を迎える時があります。自分のことを委ねなければならない時が来ます。これは私の経験から確信をもって言いますが、その時には、本当の親子の関係が暴露されます。「愛」が言葉だけであったのか、時と身を与え互いに愛してきたのかがあらわれてきます。  幼稚園に集う子どもたちも保護者の方々も、教職員たちも、「あなたが死ぬときは、あなたが笑って、周りの人が泣くような人生を送」ることを心から願っています。幼児期に育つ生きる力の根っこが、そんな人生を終わりまで支える根っことなるように、心してまた命の輝きに満ちた子どもたちを迎えたいと思います。 2018年09月08日

たっぷり外遊びをしましょう

 園庭から子どもたちの元気な声が聞こえてきます。雨が上がって久しぶりに外で遊ぶので、今日はいつも以上に元気が溢れています。朝一番に登園してきた子は、もう一時間以上遊んでいます。けれどもまだまだお部屋に入るつもりはないでしょう。お日さまと風と土や砂、草木や花、鉄の遊具や木の遊具が子どもたちを誘っています。西荻学園幼稚園の園庭は大きさを自慢できるものでありませんが、自由に遊べる園庭があるのは本当に大事なことです。 外遊びをすることは子どもにとてもよい刺激があります。何といっても、成長期にある身体が強くなります。外遊びには身体を強くする要素が沢山あります。 恵まれた日本の自然の与える感覚は最高の刺激です。どろんこ遊び、砂遊び。花のや葉っぱの色を見る。匂いを感じる。感触を楽しむ。常に違う風や雨や雷を感じる。虫に刺されるといったことも危険を学ぶことになります。良い刺激を受ける中で「感受性」も育まれます。本当に危険な虫などは幼稚園では直ちに駆除し、防疫に努めています。 五感への刺激は、脳の中でも前頭葉を刺激します。外遊びを通して子どもの脳は発達します。前頭葉は感情や意思にかかわるところで、その発達によって集中力も増します。 以外に思われるかもしれませんが、「算数」に代表される「見えないもの」へのイメージを育てているのは実際に体験した体感覚です。五感を駆使して遊んだ体験が、現実には見えないものへの想像力を培います。「かくれんぼ」や「おにごっこ」は「空間認識力」を発達させます。座っているよりも、体を動かして遊び尽くした経験が算数に取り組むときに重要な「試行錯誤」や「発見」を身につけます。 走ったり、登ったりといった全身の運動は肺機能を発達させます。基礎的な運動能力を発達させます。筋肉を鍛え姿勢が良くなり、集中力を増します。結果として雑菌への抵抗力がつきます。皮膚が丈夫になり、骨が丈夫になります。免疫機能も強くなりますから、風邪をひいても治りやすくなります。 太陽の光を浴びることで、体内時計がリセットされます。生活リズムが整いますから、課題に取り組む意欲や情緒の安定が得られます。 沢山の外遊びの経験は子どもの成長にマイナスになることはありません。天気の良い日、たっぷりと外遊びをしましょう。 2018年09月05日

子どもの役割

 先日、バスに乗っていたところ、こんな光景に遭遇しました。 混んでいるバスの入り口付近に見るからに近づきがたい雰囲気の険しい顔つきの青年がいました。足を投げ出すように寄りかかって立っているので、通路が塞がれています。そこにベビーカーにお子さんをのせたお母さんが乗車してきました。「ごめんなさい」と言いながら奥に進もうと若者の傍を通りました。若者は明らかに迷惑そうに足を引っ込めました。しかし、混んでいるため奥に進めず、お母さんは若者の傍にベビーカーを押さえながら立ちました。丁度スマホをいじる若者の視線に、ベビーカーのお子さんが見える位置でした。 若者は相変わらず険しい顔でスマホをいじっていましたが、バスが動き出してしばらくしたらスマホから視線を外して、ちらちらとベビーカーのお子さんに視線が動くようになりました。そしてさらにしばらくしたら、何と近寄りがたい険しい顔をしていた若者が百面相をはじめたのです。唇をつきだしたり、笑ってみたり、しかめっ面をおもしろくやったり…。大変失礼ですが、とてもそんな表情を人前で見せるように思えなかったので、とても印象的でした。もちろん可笑しなものと感じませんでした。善いものを見たという思いがありました。 松居和先生(元埼玉県教育委員長)の講演で伺ったことがあります。それは社会において0歳には0歳の子どもにしかできない仕事があるというお話です。それは、「人の善いものを引き出す」ことで、私たちは0歳の子どもによって「善い人間」に育ててもらうのだと話されました。先ほどの光景からそのことを思い出しました。子どもの求めていることや心はわからないことがいっぱいあります。しかしその「わからない」相手の心や気持ちを理解しようとするために、忍耐やコミュニケーション力が引き出されてくるのです。それも周りにいる人を引き付けるほどの幸せと共にです。そして人は自分自身を「善い人」と感じ取るのではないでしょうか。0歳は0歳にしか出来ない仕方で家庭を守り、社会を守る仕事を果たしているのです。そんなことを思わされた光景でした。 2018年09月02日

「失敗」はない

 教育の目的は「生きる力」を獲得させることです。もっと生々しい言葉で表現すると「食べていける、食わせていける、稼げる、養える」人にすることです。親によって、先輩によって、教師によって、一期一会の出会いの中で教えられることがあります。知識や経験を通して与えられるものが教育であるならば、必ず次の世代が生きていくための力となるべきなのです。幼稚園は教育をするところです。その目的は「卒園」させることではありません。将来、独立して生きることになる子どもたちの生きる力の獲得に幼児期にふさわしく貢献することです。 子どもたちが生きていく世界ーーそれはそのまま親世代である私たちが生きている世界の延長ですがーー、そこはいつでも成功できるドリームランドではありません。いつでも褒めてもらえるところでもありません。必ず自分に同調し、同情してくれるところでもありません。努力が報われるとも限りません。「うまくいかないこと」でいっぱいです。「生きる力」という点から考えるならば、「うまくいかないこと」こそ「学び」の機会です。そして幼児期というのは「うまくいかない」経験を保護の元で得ることのできる時期です。 子どもたちは型押しされた工業製品ではありません。神さまの愛のこもった命であり、世界に唯一のご両親から生まれた命です。皆違うのですから、隣り合えばぶつかることがあります。いつでもぴったり寄り添える筈がありません。ケンカを経験します。勝ち負けが生まれます。一つしかないおもちゃを二人の子どもが欲しがれば、当然「得た者」、「失った者」に区別されます。上手に作れなかったり、早く走れなかったり、登れなかったり、捕まえられなかったり、色々な「うまくいかない」経験に泣く子がいます。いらだつ子がいます。 この時こそ幼児期特有の保護の元で教育が問われるのです。うまくいったなら何も教える必要はないのです。うまくいかなかったときに、それを「失敗」「挫折」としてあきらめの中で枯らせてしまうか、次へとつなげる「学び」の時として「生きる力」の養いとできるかで、教育が決まります。しっかりとした保護の元で多彩な経験を「成功」と「学び」として蓄えることと、「成功」と「失敗」として取捨することのどちらが生きる力に必要でしょうか。私は「成功」と「学び」として蓄えることだと考えています。 うまくいかなかった一つ一つの経験も生きる力を引き

2学期がはじまります

 長かった夏休みも終わりが近づき、夏期保育のために登園した子どもたちの元気な声が幼稚園に響きました。久しぶりに「おはようございます」の挨拶をすると、夏の間にひとまわり大きくなったように感じました。大変な猛暑でしたが、子どもたちは充実した夏を過ごしてきたことと思い、うれしく感じました。長い休みの中、大切にされてきた子どもたちは再びはじまる幼稚園生活にためらいやとまどいを感じ、登園をしぶったり、泣いたりすることがあるかもしれません。子どもたちを見守り、送りだしてくださるようお願いします。また、夏休みの中で身に着けたお手伝いや早寝早起きなどの良い習慣は、これからも続けていけるようにご家庭でも励ましていただきたいと思います。  2学期は運動会やクリスマスなど大きな行事があります。お友だちとのかかわりを深め、特別な成功や充実といった大きな経験を子どもたちが得られるように、ご家庭のご協力をいただいてまいりました。今年も寛大なお心でご協力をいただけますよう、どうぞよろしくお願いいたします。 (2018年9月 園だよりより) 2018年08月31日

人間力

  ご自分のお子さまは将来どんな人として生きているでしょうか。弱いよりは「強い人」、いじわるよりは「優しい人」、いいかげんよりは「責任を果たす人」、無気力な人よりは「意欲のある人」、優柔不断よりは「決断できる人」、口先ばかりの人よりは「行動する人」、孤独よりは「人と交流できる人」等々。少なくとも幸せな人であってほしいと皆さん願っておられるはずです。 最近「人間力」という言葉が使われるようになりました。「人間力」があるというのは、つまり何なのでしょう。それは、「あなたにいて欲しい」と思われる人格、言い換えるならば「愛される」力ということです。実はお子さまに対して抱いている「将来こういう人であって欲しい」という保護者の皆さまの純粋な願いこそ「人間力」の土台なのです。 本当に「強く優しい」人は、「意志」があり「行動」を伴い「決断」をする「責任」を負い、人と力を合わせて限界を超えて進む道を拓く人です。 幼児期は人格形成期です。この時期に自覚して「意志」、「行動」、「決断」、「責任」、「交渉」といった将来の力の根っこを育てることが重要であり、根っこの成長を阻害するものは、どんなに世間が勧めても取り除くことが幼児教育の基礎的な志向でなければならないと思います。   2018年08月30日

幼児期にはタイムリミットがある

  0~6歳は「人格形成期」と言われます。それは人生の終焉まで大きな影響を与える時期ということです。この時期にはタイムリミットがあります。「0~6歳」までなのです。体の器官の成長や、筋肉や感覚器の発達は人格形成に深くかかわります。もちろん個人差はありますが6歳までに歯が生え変わり始めます。内臓器官の発達の40%が6歳までに行われます。感情や情動を司る脳は6歳までにほぼつくられます。体も心も、幼児から少年期、さらに大人へと変化しているのが0~6歳です。この時期に形成された「人格」の上に学習による知識、経験、行動原理や社会や人とのかかわり方といったものが築かれます。 つまり、幼児期とは人生の大樹が力を蓄える根っこが育つときであり、人生という家の土台が据えられるときです。据えられた土台を無視して家を建て上げることはできません。幼児期こそ親世代が子のために時間と知恵と労力を注ぐべき時です。 「時は金なり」という言葉がありますが、時は金より貴重な取り返せない「いのち」そのものと思ったほうが良いのです。「時はいのちなり」です。 2018年08月30日